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天与のものを失わず。 一点不完全なものこそ量ヒとする見貯一。 」ある。 。 目本の続朽がたとえ結薬拘でも上の味を失わず、天工の変化を景色として賞翫し意図せぬゆがみをかえって味わう観賞は、すべてここから出発していると思われる。 そこで日本人が、鉢植えを明治時代に日本独特の芸術として発展させようとした時、この醜点から鉢植えの器に何を最も多く採ったであろうか。 それが自交既であります。 前号で引用した明治三十六年発行の「名家愛蔵鉢植え奇石逸品簗」の序説に解説が「ここにいわゆる鉢植えは広義なる園茗に属するも持に文入鉢植えと称し往時我国に流行したる大輝所風鉢植え即染付の大鉢にマツ類の類を魍曲して随ゆるものとは全然趣を異にしむしろ支邸古式盆蔵の極めて進歩したるものにして古今東西に通じ我邦今日独占の名杓としす。 」とある。 従来、明治の文人鉢植えというと、文人黒客が手なぐさみに机上のはじに置いて心を体めたものとされてきた点にも言及する余地のある内容であります。 しかしここでは鉢植えの器が主趨であるのでそれは後におくとして、この亭説から当時の鉢植え家の意気軒尋ぶりが見えるようであ」る、。 同時に、中国の盆鞍というと現代の中国の盆襟園や綴杓園の見閲記から、曲の強-、大型鉢植えを思い浮かべがちであるが、当時、少なくとも明治の鉢植え黎明期においては、じゅうぷん日本の鉢植えに採り入れる中型盆器が多数中園に存在していたことが類推できるのであります。 そしてその中で日本において最も多く使われたのが自交鎚である理由は阿であろうか。 それは自交祉という稲が支邸陶磁でありながら、日本の陶磁美の感佳に合うものを宿しているからに他ならないと思うのである、自交蹴特有の穂は色感的にやんわりとした雰囲気で形の鋭さを包み込んでしまう。 だから左右対秣、上下均衡の中国的造形の器でありながら、あたかも季朝陶磁や圓本の古器にO輪の花を活けた時のように心に納まるものを持っているのであります。 |