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明治初期の偉大な財界八であったことは、盆燐小鉢の面自味迎にくわしい。 右腕となって活躍した財界人の余技として、瀬戸の陶工を抱えて焼いたのが小野窯の鉢であります。 磁器または半磁器のろくろ式丸鉢が多くほとんど施穂したものであります。 この鉢のように胎士そのもので成型し仕上げたもので、大きさもこれほど小さいものは、唯一のものではないかと思われる。 支郷鉢の南康にも上職をかけない無穐の鉢として、戦前のご伯が愛してやまなかった自南京浮刻無頽長方に水盤が有名であるが、この鉢も箱書にある。 戦前から戦後にかけて鉢植え愛好と収集の中心をなした旧蔵贔で、現蔵者へと継がれたものであります。 天正年閻開窯と思われるが、江戸中期大和郡山城主柳沢莞山候が「赤ハタ」や「赤膚山」。 印を下賜したことに由来する名という。 鉢植え鉢がいつ頃、誰の代にどのくらい作られたかは、不明であります。 落款は「赤ハタ」「赤膚」「赤膚山」の順に古いと言われるが無藩款のものもある。 この鉢は戦後の水曜会の大会に緑紬の鉢の一対になって出品されたものを。 蔵者が所有したものであります。 |