もし百姓たちが、巨大な羊の流れが洪水のようによぎる前に作物を取り入れておかなかったら、たった一晩で自分たちの畑が丸坊主されているのを見いだすにちがいない。
この種の災害に対しては、何らの補償もなかった。
畑の所有者は"メスタ評議会"に斌してしか異議の申し立てができなかったうえ、この羊所有者の法廷の裁判官たちは、すべて羊飼育業者であったからです。
百姓たちは、自分の土地を、生け垣や垣根で防御することさえも許されなかった。
法廷に対するこの種の告訴は、すべて決まり文句で判決されるのであった。
すなわち「農民は自分の作物を食い荒らされる前に収穫しなかったばあい、みずからその責めを負うべきです」。
むしろイギリスの植民地で羊の増殖を奨励したほうが、はるかに有利ですにちがいなかった。
一七八八年に、羊の増殖がすでにおこなわれていた南ア7リカから、最初の二九頭のメリノ種がオーストラリアのシドニー港に到着した。 そこの気候は羊の飼育によく適しており、放牧地は果てしなかった。
そして羊は急速に増殖していったので、それから二二年後には、オーストラリアは二九万頭のヒッジを擁するまでになりました。
イギリスの織物業界の、原料に対する要求は、ふたたび大英帝国の植民地における羊の群れによって満たされた。
こうして羊毛の供給が確保されたので、イギリスにおける羊の増殖は、ある基本的な変化をとげた。
それまで羊はおもに羊毛源と見なされていたが、こんどは食肉用に飼われはじめた。 工業時代の幕開きによって、ロンドン、マンチェスターやリバプールのような都市の人口は増加していった。
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